2017.7.21

 

今回は、倉山満が“トンデモ”であることを証明する。

 

 同じ理屈で、最初の上皇は皇極上皇です。

 皇極上皇の時代は「上皇」とは呼ばれませんでした。しかし、次の孝徳天皇から皇祖母尊の尊号を贈られています。壬申の乱で大海人皇子に敗北して自害した大友皇子や、恵美押勝の乱で島流しになった淡路廃帝とは明らかに違います。のちの上皇のように尊敬された扱いを受けていたのはまちがいないでしょう。

 

太字強調 管理人

倉山満『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社、2017年、32頁

 

 

続いて、前回(倉山満批判41)と同じ箇所を引用する。

 

 息子(中大兄皇子)は素行が悪すぎてなかなか天皇にはなれませんでしたが、次々と政敵を排除し、強大な権力を握っていきました。えげつないのは叔父の孝徳天皇を憤死に追いやるやり方で、天皇の皇后かつ自分の実妹の間人皇女と不倫をしたあげく、群臣を引き連れて飛鳥の都に帰ってしまい、一人残された天皇はほどなくして病没するという末路です。当時は異母姉妹との近親相姦は許容されていましたが、中大兄皇子の場合は実妹ですから、タブーに触れていたわけです。

 

丸括弧内・太字強調 管理人

倉山満『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社、2017年、33頁

 

ここで、皇極天皇について、倉山説をまとめる。

 

皇極天皇は、孝徳天皇から皇祖母尊の尊号を贈られた。しかし、息子の中大兄皇子は、孝徳天皇の皇后である間人皇女と不倫をした。しかも実妹という近親相姦であった。さらに、中大兄皇子は、群臣を引き連れて飛鳥の都に帰ってしまい、孝徳天皇は憤死させた。」

 

仮に倉山説が正しければ、皇極天皇は母親として、息子の罪の深さに絶望的な苦しみを味わったと考えられる。さらに、皇極天皇自身も臣民から白い目で見られていたはずだ。それは肩身が狭いというより、地獄の日々であったはずだ。

 

これで、どうして、皇極天皇が「のちの上皇のように尊敬された扱いを受けていたのはまちがいないでしょう。」と言えるのか。よくぞ、こんな与太話が書けたものだ。おまけに、前掲書32頁・33頁に、この話が並んでいるのだ。これで、読者を騙せると思っているのか。

 

以上、ブログ管理人は、倉山がトンデモと断定する。

 

 

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