2017.6.25

 

歴史の記述について調べてみる。

 

 このときの後南朝など、ゲリラほどの勢力もない単なるテロリスト集団です。彼らが皇室の象徴であるはずの三種の神器を奪っていった事件を禁闕の変と呼びます。

 しかし、室町幕府はそんなものはほったらかしで政務も国家運営も続けています。民衆も三種の神器を奪っていった後南朝が本物の皇室だなどとは認めません。吉野の山奥に籠ったいいけれども誰からも相手にされていませんでした。

 

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倉山満『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社、2017年、12頁

 

禁闕の変をWikipediaから引用する。

 

一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神爾を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。

幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]

天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]

奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神爾は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]

 

「捕えていた五十余人を処刑した」とあるので幕府の逆鱗にふれたと想像する。Wikipediaが正しければ、決して「室町幕府はそんなものはほったらかし」では無かったはずだ。

 

また、倉山曰く「誰からも相手にされていませんでした」とあるが、少なくても赤松氏の遺臣は、後南朝に接近し神器を奪い返した。

 

そうしたことは、倉山自身が書いている。

 そんななか、赤松氏の一族が後南朝に近づいてきます。

(中略)

...、幕府に取り返した神器をカタにお家再興を要求し、これを実現します。

前掲書12頁

同じ頁で、矛盾している。

 

単に文章が下手なのか、それとも頭の回線がおかしいのか、気になるところだ。

 

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