2017.7.29

 

まずは、引用する。

 

...(北畠)親房は、天子が直接政治を行わない天皇不親政がとっくに伝統と化しているのに、無理やり時代錯誤な親政をやった後醍醐帝を批判する立場でした。ということは、いつから不親政の伝統が始まったのか。
 その嚆矢が嵯峨上皇です。詳しくお話ししましょう。

 

丸括弧内および太字強調 管理人

倉山満『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社、2017年、47頁

 

不親政の嚆矢が、嵯峨上皇?

 

ブログ管理人は、古事記に出てくる「しらす」が不親政の原型だと考える。ただし、これは神話でのこと。歴史を顧みれば、古代の政権は、姻戚関係に基づく有力豪族の連合政権であったはずで、その結果として、天皇の権力が抑えられ、徐々に不親政が進んだと想像している。

 

さらに、次のように説明する。

 

 嵯峨上皇の時代を「院政の原型」と書きましたが、本当に後世の院政のような専制君主であったなら、もしかしたら源平動乱のような混乱があって、皇室が危うくなってしまったかもしれません。古今東西、暴君が登場したら、実力者にとって代わられるのは常です。ところが嵯峨上皇は、それをやらなかった。そして力をつけた藤原氏が摂関政治に移行したが、皇室への乗っ取りだけはやらなかった。
 結果として、天皇は政治権力を手放すことになります。

 

太字強調 管理人

前掲書50頁〜51頁

 

藤原氏の摂関政治によって、不親政が生まれた?

 

結果と原因を逆ではないか。藤原氏が権力を掌握できたのは、天皇が権力争いに距離をおいたからと考えるのが自然であろう。

 

話は横にそれるが、歴代天皇のなかには、強く権力を望んだ天皇も存在する。また、実力者に担がれて、はからずも権力の中心となった天皇もいる。だから、時代ごとで権力とせめぎ合い、そのなかで不親政が“法”になったと考えられる。

 

いずれにしても、管理人は嵯峨上皇嚆矢説は間違いだと考える。

 

ところで、文節の最後で、倉山説は「謎のUターン」をする。

 

 ところが嵯峨天皇は薬子の変のあと、天皇・皇室を三十年かけて徐々に文化的存在にしていきました。もちろん当時の人からすれば、「なぜ公式の最高権力者である天皇が政治を行わないのか」という不満はあったでしょう。しかし、世界の君主の盛衰を見ると、権力を手放したことが結果的に皇室を長続きさせる秘訣になっています。しかし、これは繰り返しますがタマタマのことでもあるのです。

前掲書51頁

 

いきなり譲位前の嵯峨天皇に逆戻りしている。であれば、不親政の嚆矢は嵯峨天皇になるはずだ。

 

おそらく、倉山は嵯峨上皇嚆矢説をひねり出したが、元々無理があるので自ら転んでしまった。憶測だが、これが真相だろう。

 

しかし、倉山の迷走は、これで終わらない。自己否定を散りばめていく。

 

このとき、皇室が乗っ取られなかったのは、タマタマです。

(中略)

...しかし、これは繰り返しますがタマタマのことでもあるのです。

前掲書50頁〜51頁

 

倉山Aは「権力を手放したことが結果的に皇室を長続きさせる秘訣」と主張しているのに、倉山Bは「タマタマ」と否定する。ここまでくると、笑うしかない。

 

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