2016.11.10
以前、シベリア強制抑留について二度記事にしたが訂正箇所多数となった。そこで改めて整理してみた。今回、曖昧な点を除き、かつ参照資料を全て示した。また興味深い事実も見つけたので併せて記した。
1、ソ連管理地域から未帰還で死亡したと推定される人数 649,400人
・戦闘死した軍人・軍属 83,700人
最小2万数千人〜最大83,700人。
参照:阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 抑留者たちの無念を想う』(彩流社、2010年、12頁)
・シベリア強制抑留により死亡したと思われる軍人・軍属 227,200人
強制収容所に移送中・逆送で死亡した人数を含む。
・邦人(軍人・軍属ではない民間の日本人)の死亡者・行方不明者 338,500人
内訳
(1)邦人のうち、北朝鮮・樺太・千島列島で死亡確認された人数 42,000人
(北朝鮮34,000人、樺太・千島列島8,000人)
参照:ウィリアム・F・ニシモ『検証ーシベリア抑留』(時事通信社、1991年、210頁)
(2)邦人の行方不明 39,000人
(満州35,000人、大連・旅順1,000人、北朝鮮2,000人、樺太・千島列島1,000人)
参照:ウィリアム・F・ニシモ『検証ーシベリア抑留』(時事通信社、1991年、210頁)
(3)邦人のうち、満州・大連・旅順において、死亡したと推定される人数 257,500人
当初参照した、厚生省社会援護局編『援護50年史』の人数に曖昧な点があり、今回は次の式で算出した。
338,500人−42,000人−39,000人=257,500人。
2、シベリア強制抑留者の総数 712,000人
引き揚げ時の調査で邦人39,000人の入ソ(ソ連による拉致連行)が確認されている。最大41,251人。
参照:阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 抑留者たちの無念を想う』(彩流社、2010年、46頁)
これにより、シベリア強制抑留者は、453,787人(ソ連からの帰還した軍人・軍属)+227,200人(シベリア強制抑留により死亡した軍人・軍属)+邦人39,000人=合計712,000人と推定できる。
3、シベリア強制抑留による死亡者 247,000人
227,200人(シベリア強制抑留により死亡した軍人・軍属)+19,829人(邦人の入ソ者39,000−邦人の帰還者19,171人)=247,000人
邦人の帰還者については、下記のデータを参照にした。
社会実状データ図録
アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
なお、同表の中で、「軍人・軍属」の帰還者として、満州41,916人・大連10,917人・北朝鮮25,391人とある。これは同地に南満州鉄道があり、下記URLのとおり満鉄軍属が多かったからだと思われる。南満州鉄道は最盛期には職員39万人(日本人職員だけで14万人)の巨大企業であった。
(ブログ管理人が一部加工した)
軍人・軍属 | 民間 | 管轄連合軍 | |
旧ソ連 | 453,787 | 19,171 | 旧ソ連 |
満州 | 41,916 | 1,003,609 | 旧ソ連 |
大連 | 10,917 | 215,037 | 旧ソ連 |
千島・南樺太 | 16,006 | 277,540 | 旧ソ連 |
北朝鮮 | 25,391 | 297,194 | 旧ソ連 |
群馬県ホームページ
軍人・軍属・準軍属とは
4、その他
ソ連管理地域にいた軍人・軍属の総数858,900人。特に満州は、昭和20年の「根こそぎ動員」により約25万が招集された。関東軍の軍人は、満州在籍者を除いて約40万人以上。合計65万人以上となる。
参照:阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 抑留者たちの無念を想う』(彩流社、2010年、21頁)
なお、終戦直後、大本営から満州関東軍に派遣された朝枝繁春は、8月26日付「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」の中で、関東軍の総数を約四三万七〇〇〇(四四万三六〇〇)人<注:原文ママ、丸括弧内は軍属を含む人数か>と記している。根こそぎ動員の25万を省いていて、意味不明な報告である。
ちなみに、Wikipediaを読むと、朝枝繁春に関して次のような記述がある(一部を抜粋)。正しいかどうか確認していないが興味深い。注目すべき点を青太字で示す。
1942年(昭和17年)7月、関東軍参謀に異動。1943年(昭和18年)12月から1944年(昭和19年)2月までソ連に出張。1944年3月、大本営参謀(作戦課)に転じた。その後、第14方面軍参謀、大本営参謀(作戦課)を歴任。1945年(昭和20年)6月、陸軍中佐に進級。同年8月、終戦間近となり、731部隊の処置のため満州に出張し敗戦を迎えた。
戦後はシベリア抑留で、旧ソ連ハバロフスク特別第45収容所に収容される。1949年(昭和24年)8月、復員。復員船では「民主運動」の吊るし上げに遭うも頑に抵抗して鎮めた。
瀬島龍三、種村佐孝、志位正二らとともにモンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」という特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受ける[1]。
引き揚げ後は商社に勤務。在日ソ連大使館二等書記官のユーリー・ラストヴォロフ(KGB中佐)が1954年にアメリカに亡命した際には、警視庁に自首している。
シベリア強制抑留に関して、次回は「日本側の改竄トリック」を予定している。
2016.12.16追記
本文中、「軍人・軍属」の帰還者に関して、満鉄軍属の存在を示したが、これは現時点では誤りと判断する。満鉄職員すべてが軍属であるかのように記述したが、これは事実に反する。
帰還者については、ソ連軍が強制抑留しなかった者(重労働ができない傷病兵や高齢兵)が多くの割合を占めたと考えられる。なお、召集解除になった後、一部の者は隊を離れたので、その者が帰還者に含まると思料する。
2017.1.21追記
当方の主張は上書きしていくので、シベリア強制抑留のカテゴリを開き最新の内容を確認して欲しい。
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