2020.2.18

 

邪馬台国を調べているなかで、あれこれ考えたことを備忘録として残す。ほとんどが仮説。そして妄想。

 

1.史料批判について

コトバンク・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説が分かりやすい。

史料学とともに歴史学に付随する重要な基礎部門。収集された史料は厳正かつ適正に批判されなければならないが,批判は外面的批判と内面的批判に分れる。外面的批判とは史料の外面的性質ないし価値について検討するもので,そのおもなものは,当該史料が意識的な偽作であるかないか,無意識的な誤認や錯誤ないし部分的な竄入や変形の有無などを吟味する「真実性の批判」,当該史料の製作年代,場所および作者について精緻な吟味を行う「来歴批判」,当該史料がオリジナルなものか,あるいはその他の史料に基づいて作製されたものかを分析解剖する「本原性批判」の3つである。内面的批判とは外面的批判を経た史料の内容についてその信憑性を決定する仕事であり,これが歴史学そのものの任務である。

 

2.魏志倭人伝の里数
辞典には後漢414.72m、魏434.16m、隋531.18mとある。いろいろ理屈をつけても、短理説(75m)はどうしても納得できない。

それはさておき、魏志倭人伝の里数はあてにならない。陸行・水行も誇張されているので参考にならない。

次の個人ブログは実に分かりやすい。

 

陳寿にはめられた日本人(4/4) −大国として描かれた南国の倭国−
https://katana04.blog.fc2.com/blog-entry-866.html

 

3.黒齒國
魏志倭人伝には次の一節がある。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。

 

そして、前述サイトの別のページを読んでいるとき閃いた。

広輿図におさめられた東南海夷図である。

https://katana04.blog.fc2.com/blog-entry-1474.html

 

東南海夷図
https://blog-imgs-129.fc2.com/k/a/t/katana04/2019082109375559c.jpg


東南海夷図と魏志倭人伝、二つの史料とも黒齒國が九州のほぼ南にある。


4.魏志倭人伝のなかの邪馬台国、女王国、倭国に違いはあるか。
魏志倭人伝では、邪馬台国・女王国・倭国の三つが使われている。

倭国3回。
女王国5回。
邪馬台国1回。

 

女王国は卑弥呼に由来する通称国名だろうか。

魏志倭人伝を普通に読めば倭国=女王国=邪馬台国となる。これに異を唱える説もあるが、文脈からはこうとしか読めない。

 

想像だが、倭国大乱を通じて多くの環濠集落が合従し邪馬台国を形成していったと思われる。だから、後述するように九州の東西に国が広がった。

それとは別に、合従によって力が増した邪馬台国に、伊都国・奴国・不弥国・投馬国や21ヵ国などがなびき、邪馬台国連合(=倭国連合)が出来ていたと思う。


5.東に海を渡れるところ
前述の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南」を改めて考察してみる。

 

例えば、諫早市で有明海を渡ったとすると、突然九州に別の国が出現することになる。これは魏志倭人伝の文脈上あり得ない。九州の東海岸であれば、本州又は四国に渡って、そこに別の国があって倭種(倭人の一種)がいても矛盾はない。

 

だから、女王国(=邪馬台国)は九州東海岸を有することは確実だと思う。

 

管理人は邪馬台国は九州北部にあったと考えているので、北九州市〜豊前市〜中津市〜宇佐市あたりが該当してくるだろう。しかし、後述のように大型帆船であれば北九州市はすぐに立ち寄れる距離だ。魏志倭人伝の里数 や水行・陸行は全く当てにならないにしても、さすがに近すぎる。だから、北九州市は邪馬台国の一部とは考えられない。除外する。

 

6.九州に渡ってきた船の種類は?
これに触れる論者は少ない。

魏の時代であるから、当然三国志の赤壁の戦いに見られるとおり、帆船と思われる。しかも外交使節を送るのであるから、それなりの大型帆船と思われる。そうであれば、壱岐島から松浦に行くのは間違い。準構造船なら1mでも距離の短い到着地を選ぶかもしれないが、大型帆船だから多少は余裕がある。

 

それ以上に、外交使節の往来であるから陸地を歩く危険を避けるはずだ。下賜品が強奪されでもしたら、使節全員死刑になりかねない。盗賊を避けるため帆船を使って博多湾から上陸する一択のみ。


だから、末廬国=博多港。河川の沖積作用により海岸線が後退しているので、現在の美野島あたりか。


現在、音写から松浦を末廬国をする説が有力。唐津市・東松浦郡等が比定される。しかし、昔の博多湾には「白浜青松」と呼ばれるほど松原が広がっており(千代の松原など)、仮に音写であれば次も考えられる。

 

松原→まつばら→まつら→末廬。

 

松浦→まつうら→まつら→末廬がOKなら、松原が駄目な理由がない。

 

末廬国を唐津市・伊都国を糸原市に比定する説があるが、伊都国が南東どころか北東になる。東松浦郡でも、南東ではなく東である。

 

関連して、古事記の「末羅県」と末廬は別物と考えるべきだ。

 

7.伊都国・奴国・不弥国・投馬国はどこにあったのか。
前述のとおり里数 は全く意味をなさない。しかし、方位だけは正しいはずだ。これが誤っていれば外交使節は到着できない。

 

伊都国。
博多港から東南にあって九州で外交を取り仕切る場所、それは大宰府付近である。それから、後述するが奴国を監視するのにも最適地と思われる。だから一番相応しいのは現在の太宰府市である。

伊都国には、一大率をおいて取り締まりをさせていた。警察・司法の役割である。この点も大宰府と似ている。


奴国。
博多港から東南にある春日市。須玖岡本遺跡・須玖タカウタ遺跡など重要遺跡が並ぶ。ただし、ある時期から、その中心が春日市の隣にある那珂川市に移動したと思われる。安徳台遺跡は弥生時代中期の大集落跡がある。

魏志倭人伝の頃には奴国の力が弱まっているが(外交権の剥奪、一大率による監視)、太宰府市と那珂川市で奴国内の旧勢力を抑えていたと想像する。


不弥国。
博多港東の宇美市の可能性があるが、はっきりしない。宇美八幡宮近くに遺跡が集まっている。博多港からは距離があるが、飯塚市は立岩遺跡があるので有力候補だ。どちらかだと思うが、現時点では五分五分。

 

投馬国。
吉野ケ里遺跡。博多港からほぼ真南に存在する。最盛期、外環壕内に1,200人、クニで5,400人の人口を有したようである。後述するが、こうした強力な友好国によって筑後川の安全が守られたのだろう。

宮崎県の都萬(つま)の音写から、宮崎県の可能性も捨てきれないが、筑後川の重要性を考えると吉野ケ里遺跡のほうが相応しいと感じる。

 

以上が、伊都国・奴国・不弥国・投馬国の比定地に関する「最適解」だ。連続説も伊都国放射説も採用しない。最適解が得られないからだ。その代わり、博多港起点説(管理人のオリジナル)とし、かつ弥生時代の遺跡を重視すると比較的容易に最適解が出た。


8.現在の県に置き換えてみる。
大分県、福岡県の豊前市、大牟田市・福岡県の筑後川下流南側(みやま市・柳川市)・久留米市が邪馬台国。平塚川添遺跡も邪馬台国に含まれる。

福岡県の博多港(末廬国)に近い範囲に伊都国・奴国・不弥国。北九州市は邪馬台国連合の一国。

鹿児島県・宮崎県は狗奴国。邪馬台国の南にあって敵対している。

熊本県は邪馬台国と狗奴国が勢力を競っている。北半分が邪馬台国・南半分が狗奴国。

佐賀県・長崎県に、邪馬台国から北に位置する21ヵ国のうち相当数がある(邪馬台国連合に含まれる)。

 

筑後川は狗奴国に対する最重要防衛ライン。友好国である投馬国(吉野ケ里遺跡)と協力して防衛する。

 

熊本市から東西に線を引き、線の北側に邪馬台国とそれに連合する国。南側に狗奴国。これが事実上の国境となる。

地図に邪馬台国を記すと次となる。

赤色で囲った範囲が邪馬台国。

 

地図は次のサイトを利用

http://www.craftmap.box-i.net/


9.人口について
邪馬台国の人口を考えるにあたり、弥生時代の人口に関する資料を探していた。すると、鬼頭宏氏の名前がよく出てくる。鬼頭氏のプロフィールを調べると日本経済史、歴史人口学が専攻。そこで氏の『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)を購入して読んでみた。

 

一読して、ゴミ箱に放り込みたくなった。

 

理由は、魏志倭人伝の戸数から西日本の人口180万人。東日本の人口分を加えて当時の日本の人口は「220万人内外」とのこと(52頁)。疑いもなく魏志倭人伝畿内説、しかも魏志倭人伝の戸数をそのまま鵜呑みにし、戸数×10人という大雑把な計算で導き出しているのだ。

 

これで学者なんて信じられないほどのお粗末な推計。

 

そのくせ、51頁では「また六世紀から八世紀の人口として、聖徳太子や行基が教えたという伝説的人口がいくつか伝えられているが、多くは仏教思想に基づく架空の数値のようで、採用することができない。ここでもやはり歴史人口学の手を借りるほかなさそうである」と宣う。

 

ちなみにWikipediaが正しければ、鬼頭氏は2011年 厚生労働省社会保障審議会人口部会委員であった。開いた口が塞がらない。

 

10.鉄器について
川越哲志編『弥生時代鉄器総覧 (東アジア出土鉄器地名表2)』( 広島大学文学部考古学研究室. 2000年) が詳しいらしいが絶版。かつ県の図書館にもない。非常に残念である。孫引きになるが、熊本県で九州北部と同じ程度の鉄器を生産していたとのこと。興味深い。

 

11.卑弥呼の居館
大分県日田市にあったかもしれない。

理由1
大分県日田市にあったとされるダンワラ古墳から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したから。七支刀と同じくらいの価値があるのではないか。

 

理由2
筑後川の奥に位置し有明海に抜けられる。豊後水道を渡って届いた物資を運ぶ際の要衝となる。そして北・南・東が山で囲まれ自然の要害になっている。日田盆地を横切る川が流れているので、川の北側に兵を置けば守りは相当堅い。


以上から、卑弥呼の居館が小迫辻原遺跡もしくはその周辺にあったとしても矛盾がない。吹上古墳からも多数の副葬品が出土しており、かなりの権力者がいたと思われる。

 

12.卑弥呼の墓
拙ブログにおいて、卑弥呼の墓が分かれば邪馬台国に所在地も分かるようなことも書いたが、これは訂正する。

なぜなら、卑弥呼は倭国大乱の後共立されたが、邪馬台国出身でない可能性もある。人材を邪馬台国以外の連合に求めたかもしれない。そうすると、邪馬台国以外の国に墓があってもおかしくない。(死後、出身地に葬られる可能性がある。)

 

だから卑弥呼の墓が分かっても邪馬台国の所在地は分からない。

 

以上。

 

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