2107.4.12

 

今回は、「放縦の自由」を定義してみた。

 

中川八洋氏の著書を参考に、自分の考えも加えた。なお、定義とは別に、ジョン・スチュワート・ミルの『自由論』についても書いてみた。

 

 

「放縦の自由」は、美徳なき自由/悖徳の自由/無道徳の自由/秩序なき自由と、ほぼ同義語であり、それは害悪・愚行・悪徳・狂気である。正しい自由と偽りの自由(つまり、放縦の自由)は峻別しなくてはならない。

 

これは、秩序も美徳もないフランス革命の自由が、悪徳と混乱と殺戮を招いたことで証明されている。

 

エドマンド・バークの一文に、「人間は自らの欲望に道徳的な鎖をまきつけて、抑制しようとする精神に正確に比例して、文明の自由を手にすることができる」とある。

 

自由と道徳は、伝統と慣習の土壌から成長し、かつ不可分の関係にある。だから、道徳が失われたら自由は瞬く間に消える。

 

道徳が失われた人間は、野生動物と同じである。野生動物は「野生動物の自由」があるが、人間の自由は消滅する。もし、猿やイノシシになりたければ、「放縦の自由」を耽溺すればよい。

 

ここからは、ジョン・スチュワート・ミルに触れる。

 

ミルの『自由論』は知られているが、これは端的に言って、ミルが一人の妻と二人の夫の同居という破廉恥な生活を弁明する理屈である。だから、ミルの使った「自由」「個性」「自己決定」は、「放縦の自由」そのものだ。しかも、それとは別に『慣習の軛からの解放』を促す慣習破壊論であった。

 

定義したように、伝統や慣習の土壌から自由と道徳が成長する。よって、土壌である慣習を破壊し道徳を否定するのであれば、それは自由圧搾の思想だ。以上から、ミルの『自由論』を信奉するものは、破廉恥か社会主義者とみなしてよい。もしくは、その両方。

 

それにしても、社会の片隅でひっそり破廉恥な生活を送るなら、まだ理解できない訳でない。真偽は分からないが、その手の噂話を耳にすることがある。しかし、堂々と著書を出したミルの神経は理解できない。注目が集まれば、すぐに破廉恥な生活は暴かれるから。

 

野生に堕ちた人間だから、なせるワザであろうか。

 

 

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